问题 单项选择题

問題12 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、 3、4から一つ選びなさい。うちの犬は頭がよくないけれどむやみに吠えない。これは犬種の性格である。もうひとつ、絶対に噛みつかない。これは訓練士に仕込まれた成果である。大きな犬なので幼児に噛みついたら事件になってしまう。 訓練士は二十代の女性でスクーターに乗ってやってきた。訓練時間は週に4回、各30分である。半年近く経っても訓練が終わらないので、いつになったら卒業できるんですか、と訊ねた。家庭内での序列がはっきりしたら、と説明する。序列ねえ、どういうことかな、とさらに質問すると、①お宅の坊ちゃんがまだ……。 十年前なので息子は小学生である。体格的にも犬と息子に差がない。うちの犬はまず僕、つぎに妻と気の強い娘に降参(注1)したのだ。だが息子は軟体動物のようにふにゃらふにゃらとしている。寝てばかりいる。起きてもあくびばかりしている。両者は最下位争いを演じたまま四つに組んで(注2)決着がつかないらしい。 動物は序列に敏感なのだ。(中略) 女性の訓練士が説明した。犬をかわいがっているつもりで甘やかし、②腕をがぶりと噛みつかれた飼い主がいた。甘やかせばつけ上がるだけ、自分が主人と信じ込んで飼い主をなめた結果である。動物はつねに威嚇しながら序列を確認しているから、仲間同士は本気で喧嘩をしない。相手が強い、とわかれば争わない。喧嘩したら互いに傷つき、厳しい自然界では生き残れないから。 さすがに血のめぐりの悪いわが家の犬も、ある日、息子にゴツンと頭を叩かれ、最下位が確定、平和的に棲み分けが決まり、予算オーバーの訓練は終了した。動物から教訓を得たわけではないが、家庭内でもタテマエとしての序列がないと混乱がはじまる。親父の権威の喪失が取り返しのつかないところまできたのは家父長制(注3)を否定しすぎた結果でもある。戦前は長子相続で、次男以下は相続権がなく女性にいたってはその他大勢の扱い、ひどいものだった。そういう状態を復活せよ、と述べているのではない。 職場で女性がもっと管理職に進出できる環境は整えたほうがよいし、僕の経験からして共働きには賛成である。家事も分担したほうがよい。だが③男女平等をはきちがえてはいけない。家庭は動物の巣に似た面がある。権威としての父性、包容力(注4)の母性まで削り取ってはいけない。父親は筋肉質で髯をはやし、母親には柔らかな肌とやさしい笑顔があるように、それらしく演じ分けたほうがよい。頻発する家庭内暴力が役割構造の喪失と無縁ではないからである。 (猪瀬直樹「家」1999年9月26日付朝日新聞朝刊による)(注1)降参する:負ける(注2) 四つに組む:しっかり向き合って闘うこと(注3)家父長制:男性の年長者が家族を支配するという制度(注4) 包容力:相手を寛大な気持ちで受け止める力

この文章で筆者が最も言いたいことは何か。

A. 犬には訓練によって家庭内での序列を教え込むことが必要である。

B.父親と母親の役割を明確にするために、家父長制を復活すべきである。

C.家庭の問題を解決するためには動物と同じく序列化が必要である。

D. 親は家庭でそれぞれ父性や母性にもとづく役割を果たすべきである。

答案

参考答案:D

选择题
阅读理解与欣赏

阅读文言文,回答下面的问题。

  赵秉文,字周臣,磁州滏阳人也。幼颖悟,读书若夙习。登大定二十五年进士第,调安塞簿,以课最迁邯郸令。泰和二年,迁翰林修撰。三年,改平定州。前政苛于用刑,每闻赦将至,先掊贼死乃拜赦,而盗愈繁。秉文为政,一从宽简,旬月盗悉屏迹。岁饥,出禄粟倡豪民以赈,全活者甚众。大安初,北兵南向,召秉文与待制赵资道论参边策,秉文言:“今我军聚于宣德,城小,列营其外,涉暑雨,器械弛败,人且病,俟秋敌至将不利矣。可遣临潢一军捣其虚,则山西之围可解,兵法所谓‘出其不意、攻其必救’者也。”卫王不能用,其秋宣德果以败闻。俄转翰林直学士。贞祜初二年,上书愿为国家守残破一州,以宣布朝廷恤民之意,且曰:“陛下勿谓书生不知兵,颜真卿、张巡以身许国,亦书生也。”又曰:“使臣死而有益于国,犹胜坐糜廪禄为无用之人。”上曰:“秉文志固可尚,然方今翰苑尤难其人,卿宿儒,当在左右。”不许。四年,拜翰林侍讲学士,言:“宝券滞塞,盖朝廷初议更张,市肆已妄传其不用,因之抑遏,渐至废绝。臣愚以为宜立回易务,令近上职官通市道者掌之,给以银钞粟麦缣帛之类,权其低昂而出纳。”诏有司议行之。兴定元年,拜礼部尚书。又明年,知贡举,坐取进士卢亚重用韵,削两阶,因请致仕。五年,复为礼部尚书,入谢,上曰:“卿春秋高,以文章故须复用卿。”秉文以身受厚恩,无以自效,愿开忠言、广圣虑,每进见从容为上言,人主当俭勤、慎兵刑,所以祈天永命者,上嘉纳焉。哀宗即位,再乞致仕,不许。正大九年正月,汴京戒严,上命秉文为赦文,以布宣悔悟哀痛之意。秉文指事陈义,辞情俱尽。及兵退,大臣欲称贺,且命为表,秉文曰:“今园陵如此,酌之以礼,当慰不当贺。”遂已。时年已老,日以时事为忧,虽食息顷不能忘。每闻一事可便民,一士可擢用,大则拜章,小则为当路者言,殷勤郑重,不能自已。三月,草《开兴改元诏》,闾巷间皆能传诵,洛阳人拜诏毕,举城痛哭,其感人如此。是年五月壬辰,卒,年七十四。(节选自《金史·赵秉文传》)

1.对下列句子中加粗的词的解释,不正确的一项是(        )

A.以最迁邯郸令/课:督促                 

B.使臣死而有益于国/使:假使

C.犹胜坐廪禄为无用之人/糜:浪费

D.又明年,贡举/知:掌管

2.以下各组句子中,全都表明赵秉文尽心为国的一组是(        )

①召秉文与待制赵资道论参边策      

②上书愿为国家守残破一州

③五年,复为礼部尚书              

④秉文以身受厚恩,无以自效

⑤大则拜章,小则为当路者言        

⑥日以时事为忧,虽食息顷不能忘

A.①③⑤     

B.②⑤⑥     

C.①②④      

D.③④⑥ 

3.下列对原文有关内容的概括和分析,不正确的一项是(         )

A.赵秉文文才出众,得到皇上器重。他受命撰写赦文,以表达朝廷悔悟哀痛之情,文章写得辞情俱尽;所拟写的《开兴改元诏》广为传诵,感人至深;辞官几年后,尽管年纪很大了,还是被皇上召回重新任礼部尚书一职。

B.赵秉文为政有方。任职平定州时,赵秉文为政从宽从简,没过多久,辖区盗贼全都不再出没;而其前任为政苛刻,好用刑,盗贼反而越来越多。

C.赵秉文积极建言献策。他曾建议出其不意攻打敌军守备空虚处,以解山西之围;还建议派熟悉市场情况的近臣掌管宝钞流通之事,并采取措施促进宝钞流通。而他的主张也得到了统治者采纳。

D.赵秉文为国家安危深谋远虑。他劝谏君王要俭勤、慎兵刑,这样才能确保国家长治久安;攻打汴京的敌军退却后,他反对庆贺,提出应当安抚百姓的主张,使庆贺之事被取消了。