小説家で自作解説をする人がたまにいる。ぼくは『ちょっとな.......』と思う。なぜそんなに思うのかと言うと、一つは『ぼくの自由に読ませてよ』と言いたいからだ。もう一つは自作解説ができるほど言いたいことがはっきりしているなら、なにも小説などという回りくどい(注1)表現形式をとる必要はなかったではないかと思うからだ、はじめから評論を書けばよかったのだ。小説は言葉を使ってこの世界に似せたイメージを作る表現形式である、世界はそれ自身では主張を持たないから、ぼくたちは小説を『自由』に解釈でくる。それが小説を読む楽しみだ。ところが、評論はそうではない。古典的名著ともなれば評論でもさまざまな解釈が競われるこどがあえうが、ふつうは評論の主張ははっきりしている。『自由』に解釈すれば『誤読』となることが多い。では、ぼくたちはなぜ評論を読むのかと言えば、それは自分の知らないことやわからないことを、知りたいしわかりたいからだ。それが知的な虚栄心(注2)というもので、これがなくなったら精神的な『老人』である。精神的な『若者』は、友人が本を読んだと聞けば、たとえ自分が読んでない本であっても『読んだよ』と答えるものだ。そして、あわてふためいて(注3)本屋さんが図書館に行って、わかってもわからなくても一晩でそれを読んで、翌日には涼しい顔をして『そう言えば、あれはたいした本じゃないね』なんて言ってみるものだ、そんなふうにして、ぼくたちは教養を身につける。ぼくは『教養』という言葉を二つの意味でとらえている。一つは知識の量で、これは多ければ多いほどいい。しかし、これは少し古風な教養のとらえ方である、現代ではあまりに多くの情報があふれているからとても追いつけない。その上に過去のことまで知っていなければならないとしたら大変だ。もちろんそのための努力は大切だが、限りがある。そこで二つめの教養の意味が必要だと考えている。それは、物事を考えるための座標軸(注4)をできるだけたくさん持つことだ。『たくさん』とは言っても、ぼくたちの思考方法にはその時代ごとに流行があるから、これは無限というわけではない。ぼくは、その時代に必要な思考方法を身につけることを第二の教養、そして現代の教養と呼んでおきたい。この現代の教養を身につけるために評論を読むのである。(石原千秋『未来形の読書術』による)(注1)回りくどい:直接的でなくわかりにくい(注2)虚栄心:実際以上によく見せたいと思う心(注3)あわてふためいて:とてもあわてて(注4)座標軸:ここでは、基準
精神的な『若者』とはどういう人か。
A.教養があるのにないふりをする人
B.教養があると思われるように評論を読む人
C.知識のないことを恥ずかしいと思わない人
D.知識の不足を自覚して評論を読む人
参考答案:B
解析::题目问的是“精神上的年轻人”指什么样的人。在文章的第三段说到:大家阅读评论的动机是想知道自己不知道的或不明白的事情,可以说是一种对知识的虚荣心。如果缺乏这种虚荣心的话那么就被认为是“精神上的老人”,而“精神上的年轻人”文中举例说是这样一种人:如果朋友读了某本书而自己没读,这时为了不让人觉得自己是个没有知识教养的人,就假装自己读了,然后回头立马去书店或者图书馆把它读上一遍,不管自己是不是真的读懂第二天还会故意跟朋友说那本书不怎么样之类的话。由此可以看出:“精神上的年轻人“就是指为了让人觉得自己很有教养而去读评论的人,其读评论的动机不是发自内心的自觉意识而是为了让别人认为自己有教养,即第2 项。