(1) 昼下がりのカフェ(注1)でのこと。男’女の争う声に振り向くと、ひとりの女が立ち上がり、 持っていたグラスを逆さにして飲み物をこぼし始めた。 客達の視線が集まる。連れの男は顔を上げようとはせず、女の腕を掴んで座らせようとするが、女はその手を振り払うと、叫んだ。 「あんた(注2)なんか最低よ!」 ほかの客が言っている声が聞こえる。 「ドラマみたいね」 いささか陳腐(注3)だったが、①女は「演じること」ですっきりしたのかもしれない。 現実的ではないことを、「ドラマみたい」とよく言う。 13年前の朝のことだった。洗面台と洗濯機とのわずかな隙間に頭を突っ込んで、母が全裸で倒れていた。意識はなかった。 救急隊員(注4)の緊迫(注5)した医療用語が飛び交い、心臓マヅサージが始まる。オレンジ色の毛布を掛けられた母は、ピクリとも動かない。その隙に、開け放たれた玄関から飼い猫が外へ出てしまった。 当時、大学生だった弟が、とっさに猫を捕まえたその時、「猫なん構っている場合ですか!」と隊員の怒鳴り声が飛んだ。 弟は、②猫を抱いたまま立ち尽くしていた。 後は、「かかりつけの病院(注6)は 」、と、はじかれるように聞かれたことだけしか思い出せない。 これがドラマなら、大概は「姉弟でお母さん!」と駆け寄って下さい」と指示される。 人間は、とっさにとんでもないことをする。長年、人間を見つめる仕事をしてきたはずが、人の本当とはなにか、いまだに捉えきれないでいる。(岸本加世子「岸本加世子の台本にないセリフ」2003年1月11日付朝日新聞による) (注1)カフェ:飲食をする店の一つ (注2)あんた:あなた(注3)いささか陳膓だ:よくある情景だ (注4)籔慧醸賞:急な病気や事故にあった人を病院まで連ぷ職員 (注5)緊迫する:物事の様子が非常に緊張し、油断のできない状態になる(注6)かかりつけの病院1いつも診てもらっている病院
「①女は「演じること」ですっきりした」とあるが、なぜすっきりしたのか。考えられる理由として、最も適当なものはとれか。
A.女は人前で男への怒りを十分に表すことができて満足したから。
B.女は女優として人前で上手に演じることができ、充実感を得たから。
C.女は人前で男を非難することで、他入から同情を得ることができたかち。
D.女は人前で男の手を払い、叫んだことを「ドラマみたい」とほめられたから。